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 はじめに

 1962
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 1969 後半
 1970

 おわりに


 7月〜12月
シングル「YELLOW SUBMARINE / ELEANOR RIGBY」発売 (8/5)
アルバム『REVOLVER』を発売 (8/5)
アルバム『A BEATLES' COLLECTION OF OLDIES』を発売 (12/10)

 フィリピン事件

ビートルズ・フィリピン・ライブ・ポスター 1966年7月4日、フィリピン、マニラのリザール・メモリアル・スタジアムでのコンサート後に準備されていた、当時の大統領夫人イメルダ・マルコス主催のパーティを、ビートルズはすっぽかしてしまう。
 これは、マネージャーのエプスタインは事前に断っておいたのだが、現地のプロモーターがメンツの為にイメルダ夫人サイドに伝えなかったことで起きた事件だった。

 翌日の新聞では大々的に『ビートルズ、大統領一家を侮辱!』と大々的に報じられ、TVには、イメルダ夫人が『裏切られた!』と絶叫する光景が映し出されていた。
 もともと民族意識の高いフィリピンだけに、たちまち国内にビートルズに対する反感が広まった。

 空港では200人もの激怒した市民から酷いブーイングを受けながら、ビートルズ一行は、もみくちゃにされてしまった。エプスタインはケガをし、ロード・マネージャのマルエバンスは転んだところを何度も蹴られた。
 フィリピン到着後の記者会見やっとの思いで乗り込んだ飛行機だったが離陸許可はおりなかった。

 マネージャのエプスタインたちスタッフ3人は、一旦乗り込んだ飛行機から再び降ろされ、マニラ側に「マニラ・コンサートでの収益金のすべてを渡すように...(゚ロ゚; 」と要求されたと言われている。
 そして、エプスタインがマニラ側の要求を呑んだ上で、ようやく離陸許可は降りたと言われている。

 それ以来、彼らはフィリピンを嫌い...二度とフィリピンには足を踏み入れていない。。。

 後になり、マルコス大統領とイメルダ夫人が行った国民に対する沢山の悪行が、世界中に暴かれることとなったのは周知の事実。。。
ポールは、『自分たちのやったことを誇りに思う。あのマルコスを袖にした唯一のバンドだからね』と後に語っている。


 ジョンの『キリスト発言』

ジョン、キリスト発言謝罪会見 1966年3月4日、ロンドンの『イブニング・スタンダード』紙にジョンの発言が掲載された。

 『キリスト教はいずれ衰退して駄目になるだろう。これはあきらかなことで、僕の言うことは間違っていない。歴史が証明してくれるはずだ。ビートルズは今やイエス・キリストよりも人気がある。キリスト教とロックとどちらが先に駄目になるか何とも言えないけどね。』

 これがいわゆる、ジョンの”キリスト発言”と言われるものだが...これはジョンが、なじみの記者の前で、いつもの調子でジョークを交えながら語ったもので...イギリスでは何の反応も起きなかった。

 しかし、予定されていた3度目のアメリカ・ツアー直前の8月になると、この…いわゆるジョンの”キリスト発言”がアメリカ全土に広まり、アメリカの30局のラジオ局がビートルズのレコードの放送を禁止するにまで至ってしまった。。。

レコード焼き打ち事件 特にキリスト信仰の厚い「バイブル・ベルト」と呼ばれるアメリカ南部を中心に、激しい怒りの炎が爆発し、ボイコット集会がいたるところで次々に開かれた。

 「ビートルズのクズ商品を持って集まれ!」と、ラジオDJが呼びかけ、バーミンガムやアラバマでは、持っているビートルズのレコードや本を皆が持ち寄り、まとめて焼きつくすという焼き打ち騒動まで起こる。(レコードや本を焼いた人は、後でまた買い直し、逆に売り上げが伸びた....とも言われている(^^;)

 ’66年8月11日、アメリカ公演の為、ビートルズは予定通りシカゴ空港に到着した。しかし、出迎えに来ていたファンは、わずかに200人。。。改めて事の重大さを痛感させられた。
 翌8月12日、シカゴで記者会見を行い、ジョンは発言の真意を説明し。。。謝罪した。

 ジョンの謝罪は、大多数の人には受け入れられたが、謝罪会見の翌日12日のテキサスでは、「ビートルズ・レコード公開焼き打ち」。19日には、メンフィスでのコンサートを宗教団体KKK団が妨害するなど、まだまだ騒動は続いていた。。。彼らへの狙撃予告などの脅迫事件も発生した。


 コンサート活動の中止

キャンドルスティック・パーク 結局、このアメリカ公演8月29日のサンフランシスコのキャンドルスティック・パークでのコンサートを最後に、ビートルズはコンサート活動を中止してしまう。。。

 最後のコンサートは、午後9時27分に始まり、10時に終了。
 最後の演奏曲は今回のツアーでのお決まりだった「I'm Down」ではなく「Long Tall Sally」を演奏しライブをしめくくった。


 コンサート活動の中止は正ジョンのリッケン式に表明されることはなかったが、その意思はすでに、メンバーおよびスタッフ全員には決定されていたのだ。

 最後の記念にジョンとポールは、ステージにカメラを持ち込んで撮影している。ビートルズ広報担当のトニー・バーロウは、この最後の演奏をカセットテープに録音した。

 ビートルズのコンサート活動停止の理由は、さまざまあるが...やはりコンサート会場で無防備な彼らに、身の危険が暗示されてきたことが大きな理由の一つであるのは確かなことである。


 しばらくバラバラの活動

ジョン アメリカ公演から帰国すると、4人はしばらくバラバラの行動となる。
 ジョンは、映画『How I Won The War』の撮影の為、帰国後すぐの9月3日に、奥さんのシンシア、息子のジュリアンと共に、ひとまずドイツへと向かう。

 ポールは、映画「The Family Way (二人だけの窓)」の音楽製作に取り組む。映画の主題曲は「アィヴァー・ノヴェロ賞」を獲得した。

 ジョージは、奥さんのパティとインドのポンペイへ旅行に出かけ、ラヴィ・シャンカールにシタールのレッスンを受ける。

ジョージとラヴィ リンゴは、南スペインに奥さんのモーリンと旅行に出かけたり...映画のロケの為スペインに来ていたジョンを訪問したりしている。

 マネージャーのブライアン・エプスタインは、ビートルズのコンサート活動が中止されたことにより、この頃から極度の不安と苦痛にさいなまれることになる。。。睡眠薬やドラッグの服用が増え。。。自殺未遂などもこの頃に起こしている。

 ちなみに…ジョンとヨーコが初めて出合ったのはこの時期である。
 1966年11月9日、「ヨーコ・オノ」による『未完の絵画の彫刻』展がロンドンのインディカ・ギャラリーで開催された。そこに訪れたジョンは、ヨーコと運命的な出会いをするのである。
 ジョンとヨーコが結婚までに至るのは、もうしばらく先の事となるのだが。。。
 
 もう一つちなみに…ジョンとヨーコが運命的な出会いをした11月9日は、後の1969年に流れることとなる「ポール死亡説」の根拠とされる自動車事故が起きた日でもある(^^;
 翌日の11月10日が「ポール死亡説」の公式の死亡日となった(^^;


 1966年の後半は、順調に成功の道を駆け上がってきた彼らに、それまでに経験したこともない暗雲が立ち込め、災難に見舞われる時期となったが。。。それは同時に、これからの彼らにとっての重要な転換期になったとも言える。
 ライブ活動の中止により、彼らの音楽活動はレコーディングが中心となり、それにより大きな音楽的な飛躍をとげ...世界中の音楽シーンを驚かせていくこととなるのである。


    


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